エロゲー的物語の果てに待っているもの

「エロゲにおけるエロの存在意義」について (独り言以外の何かさん)
 いきなり俺話でアレですが、最近、俺って別に凌辱ゲーじゃなきゃあんまり抜けないってわけじゃないのかな、と思ってまして。
 いや、気になるソフトは(最近バランス変わってきたけど)凌辱ゲーが多いし、これまで買ってきたエロゲーたちも凌辱ゲーがかなり多いと思う。
 でも、普段使ってる(嗜好により選抜された)ゲームタイトルを見ると、凌辱されてればいいとか、そういうんじゃないのかな、と。ヒロインが酷いことされてればいい、とかそういうんじゃないのかな、と。勿論、絵柄やシチュは非常に大事なんだけど、どうやらそれと同じくらい、プライオリティの高いものがありそうだぞ、と。
 
 さて、抜きゲーについてはとりあえずさて置くとして、物語ゲー、と言うか、非抜きゲーにおけるエロって、凄く立ち位置が難しいものだと思うんですよね。確かに最近では、非抜きゲーでありながらもしっかりとエロを強化するエロゲーが増えてきました。でも、それらではあんまり抜けない。本来なら、残念ながら多くの抜きゲーには欠けていることが多い、「キャラクター性」っていう大きなアドバンテージを有しているところにエロ描写が加わったんだから、実用性も高くなってしかるべき。でも、それは簡単には比例してくれない、のではないかと。
 

 恋愛の到達点としてのエロなら、キャラクタ性を織り込むことは必須だと思うんです。そこがしっかりしていれば、100%必然性がある状況ではなくても納得してもらえるんじゃないかな……とか。

 リンク先エントリのこの文章を読んで、すこし前にプレイした『Clover Point』を俺は思い出しました。

 予定では、さっきキスしたばかりだから、もっと何ヶ月かあととか事によっては結婚したあととかだとばかり思っていたのに……。

 この主人公の独白は、まあ勿論エロゲーってすぐセックスするよねという話にも繋がるのかもですが、少し見方、と言うより言い方を変えて、「到達点はエロである」というエロゲーの重要な特徴を思い起こさせてくれるような気がします。
 エロゲーの登場人物達は、様々な物語を乗り越えて、想いを確かめ合います。
 しかし、その物語は、セックスと地続きになっているのでしょうか。敵を倒したり、誰かを救ったり、救われたり……。いやいやそれどころか、誰かを好きになる・誰かに好かれる、という物語とセックスは、地続きになっているのでしょうか。
 エロゲーは、原則として物語と恋愛が非常に強く結びつきます。それをヒロインの存在が保証します。しかし、それゆえに、セックスは本来その前段階にあるとも言えるコミュニケーションを恋愛の中に見つけにくくなっているのではないかな、と。何故ならその居場所にはもう、物語が住んでいるのです。

 そこで思い出すのが、トノイケダイスケなんですよね。『Garden』をやってのめりこみ、氏の過去作である『Canvas』と『水月』も買ってみたわけですが(『Canvas』は開始30分くらいでぶん投げたけど)。
 『Garden』の絵里香と『水月』しかやってない俺だけに外してるかもしれないけど、氏の作品のヒロインって、セックスに対してみんな自覚的だよね。単純に、「くっついたら、はいエロシーン」ってわけじゃなくて、ヒロイン達が、「主人公(=異性)と結ばれたら、いずれセックスすることになる」ということを、物語の中で物凄くまっすぐに見つめてる気がする。それも、妙に生々しい見つめ方で。だから、氏の書いたエロシーンは凄く実用的だった。勿論絵も素晴らしかったんだけど。あー上手く書けないな。なんて表現したらいいんだろう。とにかく、トノイケ氏の描くヒロインのセックスへの視線が、いいな、ととても印象的に思ったのですよ。

 個人的には、エロゲーにおける非抜きゲーのエロがこれから整合性を獲得していく方法として、物語とのグリップもさることながら、物語中のヒロインの「セックスという事象」への態度や意識(とその変化)の描写が結構キーになってくるような気がするのですよ。
 
 次は『さくらむすび』やってみようかな。独り言以外の何かさんは、後世に語り継ぐべきとまで仰ってるしな。ていうかやっぱりにょーなのか。雪さんのにょーは綺麗なにょー。