望みが絶えた生活

「酷い目に遭う女の子たちの話」は、どっちの視点で見ようかな。たまごまごごはんさん)

 唐突ですがエロゲーマーとしての俺ってSなんですよね。既にエロゲー界において一つのジャンルを形成したと思われる「受けシチュ」が基本的に俺は苦手です。足コキとかダメですね。なめとんのか。いや、舐めてはもらいたいけど(?)。痛いよ。他人様の持ちモンを勝手に踏んづけてんじゃねえハゲと。特殊な状況下に無い限り、俺≧ヒロインという精神的優位性を保っていたいし、場の主導権を握りたい気がするんですよね。
 とまぁそう思ってたんだけど、俺って「女性視点」「女性主人公」のエロゲが大好物なわけですよ。その場合、女性が所謂女王様的に活躍するわけではなくて、やっぱり女性が酷い目に遭ってほしい。というか、女性として酷い目に遭いたい……のか? そう考えると、俺ってMなのかも……。
 とは言え、女性視点の女性が酷い目に遭う物語に対する接し方といっても色々あるはずです。

 リンク先の記事にある町田ひらくの作品群は、も、本当に希望が無いんですよね。それは、「こうしたい、ああしたい」といった類の希望ではなく、それ以前の「無限に拡がって行く可能性」が全滅してるってことなんですよね。酷い目に遭う少女達は、それに抗う術は無いのです。だから彼女達は諦めている。何故ならそれはバッドエンドではないからです。バッドライフなわけです。続くわけです。彼女達は先は無い。だが進むしかない。それ以外の選択肢は排除されているわけです。ここで揃いも揃ったクソ共(男性側)に目を向けてみると、彼らは楽しそうじゃないんです。目が濁っている。少女達の道が狭くなっていくのと同時に、男性側の道も狭くなっていく。呑み込まれて、その業(としての自分自身を)を少女との関係を通して、まるで儚い夢のように燃やし尽くしていく。
 あの絶望を思い出したエロゲーが『魔法天使ミサキ』シリーズでした。ヒロインたちは魔法戦士という「希望」の象徴です。だが、その「希望」の象徴としての彼女達の身体は、デスパイア(絶望)という名の敵によって容赦なく陵辱されてしまう。でも彼女達は諦めるわけにはいかないのです。彼女達は希望だから。だから(逆説的に)彼女達は諦め、絶望をその身に引き受ける。陵辱されても、彼女達の戦いは続いていく(まぁ町田作品と違って、力の逆転が「ミサキ」では起こりうるのだけど)。

 俺はヒロイン達の「先の無さ」と「続かざるを得ないその先」に惹かれます。そういう意味で俺は、女性が酷い目にあう物語を、彼女達に感情移入しその絶望を感じながらも(「ミサキ」のような女性主人公のエロゲーでも)、一歩引いた視点から見ています。

 一方、傑作女性視点エロゲー『Bad Name』に見られる、女性が快楽に呑み込まれて行く陵辱モノをやるときは、俺はより感情移入しているように思うのです。これは単純に言ってしまえば、精神的にも肉体的にもハードルが下がっているからなのかな、と。だってさ、時と場合に寄っちゃ電流流されたりレイプされてボコボコに殴られたりしたくないじゃん(笑)。それは、男性(つまり俺)でも感覚できる痛みですよね。だから、感情移入出来ない。でも、快楽モノは違いますよ。分からないが、想像は出来るという、非常に都合の良い距離感なんですよね、俺にとって。そういう意味ではやっぱり俺はMなのかもしらん。ただし都合の良い意味で。ていうか、男性主人公のエロゲをやっている場合(つまりS気分のとき)にも、女性側に少なからず思いを馳せる部分があるのかも。だから、痛いのは嫌いなのかも。ひぎぃ苦手なんだよねー。

 つまり、二次元バンザイと。そういう話です。多分。なんか上手くまとまった考察になる気がして書き始めたら、殆ど自分のはなしになってしまった。ていうか、男性Sと男性Mではなく、性差を超えて男性Sと女性Mの感情や視点を行き来する(したい)俺って異端なのかな(結局は男性Sと女性Mを通した男性Sの関係だから、行き来なんてしてねえ、って言われる気もしないでもない)。